ミンダナオビジネス振り返り その① 収益など
私は現在48歳。2017年7月に、フィリピン
ミンダナオ、パナボで起業。
といっても本業のサラリーマンとの兼業です。
バナナを農園から買い付け→輸送→売りさばく
ビジネスです。
日本で本業の仕事に従事しながらのリモート
コントロール。結構大変です。
この不毛なサラリーマン地獄から、何とか
脱出したかった。
日々の業務(苦行)でビジネスの能力は向上するが、
何のために向上させているのか?
会社のため? 私はそんなに人間できていません。
社畜にはならない。
会社役員を目指しても、しょせん、サラリーマン
役員。何かあれば役員の責任。責任に見合った
報酬でもないし。
家族のために働く。そんなの当たり前。
+アルファがほしかった。55歳でサラリ-マン脱出を計画。
さて、パナボは遠いです。田舎です。
日本(中部国際空港) → マニラまで4時間とちっょと。
マニラ → ダバオまで90分程度。
で、ダバオ空港からパナボまでなんだかんだで
バスで1時間以上。
乗り継ぎの待ち時間など考慮すると、日本を
朝出ても、パナボ到着は19時頃です。
移動だけでかなり疲れます。
この地でこのビジネスを選んだ理由。
それは、3C分析を何度か繰り返し、
この地でこのビジネスなら勝算ありとの
結論に至ったからです。
ビジネスパートナーのW、とっても働き者で
優しく真っすぐな男性です。皆から慕われて
います。
写真はパートナーのWとその息子です。
Wは40歳前半です。
彼とは2011年に出会いました。
私が当時、本業の関係でフィリピンに長期で
島流しにあい、その際にWはホテルのドアマン
として働いていました。
時々、彼と夜に飲んでいました。
正直者でやさしく、変わったフィリピン人だと
思っていました。
彼は2000年頃、あるフィリピンオーナーに
雇われて、このビジネスに従事していました。
オーナーが病気で急死。機会があれば再度
かかわってみたいといっていました。
用意した軍資金は200万円程度。
私が2013年頃、交通事故にあい、その際少し
後遺障害が残り、保険金が支給されたので、
その費用をつぎ込みました。
なけなしの200万円です。
事業に必要な中古トラックを購入。
日本円で140万円程度。ISUZUのエルフです。
資金が限られていたので、トラックのヘッド
のみ購入。
もともと、Wが溶接の技術にたけていたので、
鉄の材料を購入して、荷台を作成。
こんな感じで作業 ↓
30万円程度でバナナを買い付け、バイヤーが
待つビコールまで陸路とトラックが乗り込める
カーフェリーでビコールまで運びました。
ビコールまで約1,000kmの道のりです。
当時は要領を得なくて、買い付け→
バナナの箱詰め → 輸送・売却・帰社に
10日間以上かかっていました。
よって、ビコールへは1か月に2回しか
行けません。
また、最初の数ヶ月はビコールの
バイヤー達にかなりなめられました。
現金で買い取ってくれません。
新参者は試されるのです。
次回来た時に払うといわれます。
彼らは次回は資本が尽きて、
これないと思ってるのです。
なめやがって!
資金を振り絞って再度訪問。
それでも1000ペソ、2000円しか
手元にないとうそぶきます。
なめやがって!
Wに、完熟して捨てる予定のバナナを
全て地元警察に寄贈。
かなりの量。
で、警察に相談。警察同伴のもと借金取り立て。
警察からも支払いを促してもらう。
これで何とか。
でも、20万円くらいは今現在も回収不能。
信用できるバイヤーもいます。
彼らとだけ取引をする。
経費やW及び他の社員への給料を支払うと、
私の取り分はビコールへの1回への輸送で
2万円程度、1ヶ月で4-5万円の収益でした。
当初、事前にWをビコールへ派遣して
マーケット調査を実行。
収益シュミレーションを何回か実行し、
計画では、1か月に10万円程度の収益を
狙っていたので、その半分程度と
情けない結果でした。(´;ω;`)
※200万円以内の投資で、リターンが月4-5万円で
あれば、悪くないという見方もありますが...
Wもショックを受けており、責任を感じて
いました。
私は、実行の決断は全て社長である私の責任。
気にしない。行けるところまで続けてみよう。
期間は6カ月。ここで好転しなければ、
撤退を考えようと話していました。
当社は品質で勝負する方針としていました。
競合他社が乱雑な状態でトラックでハナナを
運んでいる状況の中、手間と費用はかかるが、
木箱に30kgづつのバナナをグレード毎に分けて、
できるだけバナナが痛まないように工夫して
運びました。
この苦境が2-3カ月続いた後、事態は徐々に
好転し始めました。
品質重視の経営が徐々に顧客から受け入れられ始めました。
つづきは次回。
ではまた。(・ω・)ノ